やわらかい雨 薄ぼんやりと朝が来た。 雨の気配がする。完全ではない静けさが、窓の向こうに佇んでいる。 私はそっと、昨日のことを思い出す。 最初で最後のような恋をした。美しい恋だった、と思う。繋がることができた。そう感じた。でもそれは、私が始まりと終わりの間で夢を見ていただけだった。 ゆっくりと立ち上がってカーテンを開ける。目には見えない雨で視界が埋められていく。窓ガラスに映る顔は、一瞬にじんで、いつもの無愛想に戻った。 シャワーを浴びよう。昨日の煙草の香りが体に残っているから。彼の吸う煙草はわずかに甘く揺れていた。泡にまみれて少しずつ外側から彼が消えていく。本当に彼を忘れることは酷く難しく感じられた。でも、こうやって毎日体を洗い続けたら、いつか全て消してしまえるような気もした。いつか全てを忘れてしまったら、彼の中の私も消えるのかもしれない。私の中に彼がいたことすら、きっと私は忘れてしまう。 バスタオルにくるまり、しばらくじっとしていた。自分の体を確かめる。大丈夫、何も変わってない。吸い込まれていく水滴のひとつひとつに言い聞かせた。 着替えを済ませると雨はやんでいた。遠くで光が差すのが見える。虹は出なかった。そういえば最後に虹を見たのはいつだろう。たった一度だけ見たのを覚えている。どうしようもなく何かが言いたくて、何も言えずに窓に背を向けた。 紅茶を入れながら、昨日焼いたチョコチップクッキーをかじる。 彼と別れた後、無性に食べたくなってスーパーで材料を買った。ひとつひとつをカゴに入れて、この前のバレンタインに同じものを作ったことを思い出した。彼はおいしいと言っていただろうか。自分の一番好きなクッキーを作って、一番好きな人にあげる。他愛もないことだけど、呆れるほど愛おしいことでもあった。 久しぶりに作ったから、手つきはぎこちなかった。タネを作り終えた頃には二時間近く経っていた。何も考えていなかった、はずなのに、どうしてか彼との会話ばかりを思い出す。 「わかるって言わないでほしい」 オーブンから甘い匂いが漂ってくる。 「何も知らないだろう」 焼き加減の見極めは大事だ。八分ジャスト。 「わかりあうっていうのは、そんなに簡単なことじゃないんだよ」 ピーとオーブンが鳴った。 鉄板に並べられたクッキーはきれいに焼きあがっていた。 クッキーをもうひとつ食べる。我ながら上手にできた。昔はよくお母さんと一緒に作った。一人でも作れるようになったよ。当たり前か。呟いて笑った。 少しずつ空が晴れてきた。さすがに紅茶とクッキーだけではお腹がすくのでパンを食べた。眠気が覚めてきたのを感じながら、クローゼットを開ける。確か、買ったばかりのワンピースがあったはず。次のデートで着ようと思っていたもの。ゆっくりハンガーから外して体に合わせる。今日の気分にぴったりだった。 ワンピースを着て、化粧をした。いつもよりちょっとだけ自分のために、時間をかけて。彼と付き合っている間、ずっと髪を伸ばしていた。明日にでも切りに行こう。今日はもうしばらく今の形のままで。 日差しが部屋の中で暖かさをばらまく。窓を開けると雨上がりのにおいがした。土のにおい。これから暑くなりそうだ。緑が目に眩しい。 玄関を開けた時、携帯を忘れたことに気がついた。 すずめが鳴く。洗い流された空気はきれいすぎて、息をするのも苦しい。太陽が直接私を照らすから、焦げてしまいそう。木の葉の隙間ですずめが鳴いている。 歩くほどに何も考えなくなると思っていたのに、それは逆で。歩けば歩くほど、何かが頭の中を廻っていく。だけど、考えた端からすべて消えていく。たどり着いた結論が消えて、堂々巡り。歩き方を忘れてしまいそうだ。 近くのコンビニでミルクティーを買う。ありがとうございました、と言った彼女は一体どんな人なんだろう。私の知らない彼女の生活があって、彼女の知らない私の生活がある。これからも知ることはない。知らないことと忘れることは違うもので、彼女のことは忘れようがない。だって何も知らないから。でも、また会うかもしれない。 坂を上ったところにある公園へ向かう。少し気温が上がってきた。日ごろの運動不足を感じながら歩いていく。進んでいるようで進まない。だけど今日は急ぐ必要もない。 彼は歩くのが苦手な人だった。人と歩幅を合わせるのが苦手だった。私よりも速いその足に、ちょっと急いで付いて行くのが好きだった。その分いつも早足だった。時折遅れる私を、なんでもないことのように待つ姿が好きだった。でもやっぱり、彼と歩く時はいつも早足だった。 雲はだいぶ流され、青空が見える。風が吹いてワンピースの裾をはためかせた。 公園にはあまり人がいなかった。親子連れが何組か砂場で遊んでいた。木陰のベンチを探して歩く。水たまりを避けながら、その奥に映る透き通った青を見る。乾き始めた世界で樹々の呼吸が聞こえる。濡れていないベンチを見つけて座った。息をつくと、辺りでしずくの落ちる音がする。パタパタと音をたてるそれに、耳を傾けて目を閉じた。 目を閉じると、何も見えないから怖い。 だけど耳は、だから耳は、拾える限りの音を拾おうとする。何もかもを。 「ごめん。俺には無理だ」 「どうして」 「俺にお前の気持ちはわからないよ」 「わかるなんて言うなって言ったのは、誰?」 「俺だよ」 「じゃぁわからないって言うのはいいの?」 「それは、」 「わかるとか、わからないとか、そういうことを言ってほしいわけじゃない」 「じゃあどうすればいいんだよ?」 「どうしていつも諦めるの?」 「俺が何を諦めてるんだよ」 本当は、わかっていた。美しい恋なんかじゃなかった。ただ恋焦がれて、私は見失っただけだった。わかりあうなんてそんなこと、簡単に口にしてはいけなかったんだ、きっと。素直であることは誰かを傷つけるのかもしれない。 風が凪いだ。目を開けると緑の間から光が漏れて、私の上で模様を描いていた。 足に何かがぶつかった。黄色いボール。拾い上げると女の子が走ってきた。少し笑ってボールを差し出す。彼女はじっと私を見て、それからボールを受け取った。 「ありがとう」 小さく呟くように言って、女の子は走っていった。私は、うまく笑えていただろうか。 向こうの方に女の子のお母さんが見えた。こちらに向かって軽く頭を下げていた。会釈を返しながら思った。自分はどんな子供だったんだろう。いつの間にか子供と呼ばれる歳ではなくなってしまった。あんなに大人になりたくないと思っていたのに、なってしまえばたいしたことではなかった。昨日が今日になったからといって、すべてが色を変えてしまうわけでもない。あの子もいつか大人になる。私はその頃、何をしているんだろう。 ミルクティーを一口飲んだ。 子供の笑い声が聞こえる。水たまりが反射する。緑は緑を濃くして、青は青を濃くして、色という色がみんな主張していた。その中で、強すぎる日差しに色は滲んでしまっていた。 「お前は知らないんだよ」 「何を?」 「俺のことも、お前のことも」 「知らなきゃいけないの?」 「わからないけど、そう思う。でも、たぶん、俺も知らないんだ」 生まれてきた時、私は何を思ったんだろう。何を覚えていて、何を忘れてしまったんだろう。数え切れない選択肢のうちのたったひとつ。それが私になった。誰でもなく、あなたでもなく、私になった。そうやって生まれてきた世界中の人たちの中で、私は彼と出会った。確率はどれくらいなんだろう。知らないけれど、きっと知らなくてもわかる。 もし、私の代わりに、違う私が生まれてきたとしたら、彼とは出会わなかったかもしれない。私が押しのけたたくさんの可能性。覚えてなんかいないけど、そうやって生まれてきたのが事実なら、私が蹴落としてきたものは、自分であって、自分でない存在だったんだろう。 ごめんね。 そう思って、そう思ったってどうしようもないことなんだと気づいた。 走ってくる足音が聞こえて顔を上げた。さっきの女の子が立っていた。手をそっと私の方に差し出す。飴玉がひとつ。黄色い包み紙。 「くれるの?」 「うん」 「ありがとう」 小さな手から飴玉を受け取ると、女の子は笑って言った。 「ボール拾ってくれたから。ありがとう」 「どういたしまして」 きっとうまく笑えていた。 くるりと振り返り、女の子は走っていった。お母さんの手をとって、こちらを見て何かを話すと、やがて帰っていった。その後ろ姿を見ながら、指先で飴玉をいじっていた。飴なんて久しぶり。 包みを開いて飴玉をつまみ上げる。口の中に入れると、甘さが広がった。しばらく口の中で転がしてから立ち上がる。両手を上げて伸びをして、そして歩き出した。 公園にいた子供たちは、いつの間にかみんな帰ってしまっていた。もう雨の降った気配はなく、ところどころある水たまりだけが潤いを保っていた。 砂場には子供たちが遊んだ名残があった。いくつもの砂山、それからトンネル。水を流した跡もあった。昔、やった遊び。砂山を作って、その向こう側とこちら側とで少しずつ掘っていく。少しずつ、慎重に、ゆっくりと。そして繋がった瞬間、私たちは互いの手を握った。ひんやりとした砂の中から現れた手は、やわらかくて温かかった。見えないところで繋がった手は、なんとも不思議で、だけどとても確かなものだった。 彼ともそうやって手を繋ぎたかった。 自分の手に自分で触れることじゃわからないことを、彼の手に触れることでわかりたかった。何がわからなくても、何を知らなくても、きっと繋がれた。 「明日、出かけようか」 「いいよ。突然どうしたの?」 「いや、ただ何となく」 「なにそれ。どこ行きたい?」 「どこでもいいよ。一緒に行こう」 そうやって一緒にいれば、わかったかもしれない。 公園を出て、坂を下る。行きと同じで、急がない。足元に落ちる自分の影を蹴りながら、飴を少しずつ噛み砕いていった。風がワンピースを揺らす。 そういえば、まだお昼を食べてない。昨日の夜は結局クッキーしか食べてなかった。何かおいしいものを食べよう。口の中で砕けた飴が溶けて消えた。 坂の終わりで水たまりを飛び越えた。 お昼を食べて家に帰ると、陽は西へと傾き始めていた。ずいぶんゆっくりしていたんだな。窓を開けて空気を入れ替える。少し涼しくなった風が心地よい。 化粧を落として、顔を洗った。見慣れた顔にちょっとだけ笑いかける。 一生直接見ることのない自分の顔。この顔で、この体で、ここまで生きてきた。これからもそうやって生きていくんだろう。他の誰でもなく、私が私として生まれてきたのだから。そうやって生きていく体と名前を与えられた日から、私が押しのけてしまったたくさんの可能性が、きっと私を生かしている。 もう一度顔を洗うと、短く息をついた。 部屋に戻ると、携帯が光った。開くと留守電が残っていた。再生すると、耳になじんだ声が聞こえた。意味もなく手のひらを開いたり閉じたりしながら聞いていた。彼らしい淡々とした話を、彼らしくない戸惑ったような声で話していた。 「ごめん」 西日が町をオレンジに染めていた。目を閉じてしまう。どうして人はこんなにも。 ごめんね。 留守電を聞き終えて携帯を閉じる。何も変わりはしない。だから少しずつトンネルを掘っていくしかない。指先が触れるには、まだ時間がかかるけど。きっと私たちには言葉しかなくて、そこから抜け出せないままだった。 天気予報は、西の方から徐々に梅雨明けしてきたと伝えている。夕暮れの紫で暗くなっていく部屋は、静かで、時間がそっとあるだけだった。もうすぐあの音もなく降り注ぐ雨はいなくなって、嵐のように潔い雨が降る。むせかえる夏の匂いが、窓の隙間から部屋へと入ってくる気がした。 ふと目を覚ますと、少し寝ていたようで、部屋の中は真っ暗だった。立ち上がってカーテンを閉める。ささやかに流れる音がして、目を凝らすと雨が降っていた。やがて終わる季節が洗い流していく何もかもの中に、今日の私の独り言や足跡もあるんだろう。そしてあの砂山やトンネルもきっと崩れてしまうんだろう。だけど明日は明日で、また誰かが作った砂山が太陽に焼かれて、見えない場所で誰かの手と手を繋ぐ。 耳を澄ましながら、彼の残した留守電を思い出す。 「明日、会いたいんだ」 やっぱり明日、髪を切りに行こう。 20091108 |