雨情賛歌


 彼女は窓から空を眺めていた。雲のかかった薄暗い空を眺めていた。
 六畳一間は彼女にとって決して狭いものではなかった。しかし広くもなかった。畳の匂いの立ち込める小さな部屋では、彼女はたったひとつの生き物だった。
 そう思っていたのは、彼女だけだった。
 向かいのアパートには子どもの服が干してある。風は温く、はためく洗濯物はどことなく夏の気配を連れていた。
 もう、季節は変わろうとしてるんだ。呟きにもならないため息。彼女は白い腕で自分を抱きしめていた。寒くもないのに。そしてまた窓の外を見る。空は暗く、そして重い。
 杖をついた老人が一人、前の道を歩いて行った。それは彼女の目には映らなかった。

 もしそこに、人並みはずれた聴覚の持ち主がいたなら、
 彼女と彼女の中の鼓動が聞こえたかもしれない。

 彼女の部屋には彼女しかいなかった。そして彼女がもう一つの鼓動を包んでいる。知っているのは、あなたと私くらいでしょうか。彼女は、そう、ひとりだと思っていた。
 雨はまだ降らない。梅雨前線の名前はしばらく前から流れ始めた。彼女の耳にも届いただろう。世間話の好きなご近所さんは捨てるほどいる。洗濯物が乾かなくなるわね、すぐにカビちゃうから困るわ、家の中が湿気でベタベタになるし。そうですね、彼女の答えはいつも同じだった。
 押しつぶされそうなほど雲が迫ってくる。見上げる視線は変わらない。その色はいつからか赤みを帯びていた。日が暮れる。
 夕食の準備をしていなかった。買い物にも行っていない。一日眺めた空は、黒さを増して圧し掛かってくる。湿度の限界は近いだろう。空気が肌に触れた瞬間、水になりそうだった。ゆっくりと立ち上がった彼女の腕には、自分の指の跡がうっすらと残っていた。抱えていたものは。
 窓に背を向けた。雨は後ろからそっと。パタ。
 雨、降ってきた。彼女の口からは音は漏れなかった。窓から身を乗り出して空を見上げる。瞬きの合間に雨は瞳を濡らした。彼女は腕をもう一度自分の身体に回した。
 その日、梅雨はやってきた。彼女の中にも雨の音は響いていた。





レントゲンに写る丸い影に雨季の予感を抱く白い腕






20070724