海 ガラスの割れる音で目が覚めた。 豆電球が一つ部屋を照らしていた。カーテンの向こうはまだ暗い。手を伸ばして掴んだ携帯の液晶は午前三時を映していた。 隣の家から微かな物音がする。さっきのガラスの音もお隣からだろう。昼夜逆転の生活をしているらしいお隣さんは、時々睡眠を妨げる。以前にも盛大に食器を割って、なにやら幸せな夢を見ていた私を起こしてくれた。せめてもう少し壁が厚かったらよかったのに。 寝返りをうって壁に背を向けると、棚に飾られた写真がぼんやりと見えた。五年前に友人といった大学の卒業旅行。行き先は沖縄。当時お金のなかった私達にはそれが精一杯だった。それでもあの海の匂いが忘れられない。あの青さも、あの空気も、あの温かさも。それから一度も沖縄には行ってない。 そんなことを思い出していたからかもしれない。波の音が聞こえた気がした。遠くから、そうまるで窓の向こうに海があるかのように。 ありえない。そう思ってもう一度寝返りをうった。お隣からはもう何も聞こえてこなかった。目を閉じて、さっきまでの眠りを手繰り寄せるように、ゆっくり深く呼吸を繰り返した。やがて沈むように落ちるように感覚が遠のく。ああ、波の音が聞こえる。 はっと目が覚めた。波、また波の音。目を擦って軽く頭を振った。耳を澄ますと、確かに波の音が聞こえる。砂浜に打ちつけるように、堤防に砕かれるように、波が寄せて返っていく。そんな音が聞こえた。 疲れているのかもしれない。ちゃんと眠った方がいい。明日もまたプレゼンがある。寝ぼけた頭では何を突っ込まれるかわからない。だから寝よう、もう寝よう。 呪文のように胸のうちで繰り返した言葉には何の効果もなかった。一度気づいてしまうと気になって仕方ない。今はもう波の音にしか聞こえなくなっていた。 一息に布団を押し上げて、体を起こした。寒くはないが、布団の温もりが恋しい。それでも、まだ聞こえている波の音が気になる。海があるはずもないのに、もしかすると潮の香りすらしそうなほど、完璧な波の音だった。ベッドから立ち上がって窓に向かう。波の音は消えない。カーテンを少しだけ右にずらした。暗い。暗くて何も見えない。 一瞬、光が横切った。右から左へ細い光が差して、消えた。カーテンを払って後ろによけ、窓を開ける。風が吹き込んで私の後ろでカーテンを揺らした。 「海、だ」 間違えようのない波の音と潮の香り、そして白く光る海面。突き出た半島に立つ灯台が闇を照らす。 アパートの2階のベランダで、あるはずのない海を見た。 身を乗り出して下を見ると砂浜が広がっていた。打ちつける波は、波以外の何物でもなかった。 1階だったら良かったのに。駆け出して触れて確かめたい。水の冷たさも、足を掬う波も、自分の身体で確かめたい。でも部屋を出て1階に下りるのは怖かった。全部消えて、いつもどおりの道と家があるだけだったら、怖い。 夢なら醒めてしまう。現実なら冷めてしまう。日常を忘れることなんてできない。 吹きつける風は、ただただ潮の香り。纏わりつくように私を覆う。少しずつ熱を奪って、私を奪う。目に沁みる。肌に沁みる。それでも離れられなかった。 あの日より肌寒い。今頃の沖縄は暖かいのだろうか。夜は海の表情を変えてしまって、あの沖縄の海と重なりはしない。日向の匂いのしない香りが、どこか息苦しい。時折現れる雲間の月は弱すぎる光を投げる。それでもそこには海があった。 ガラスの割れる音で振り返る。 さっきよりも大きな音とさっきよりも多い音。まだ寝ていなかったお隣がまた何かを割ったのだろう。 ふっと風が匂いを変えた。 顔を戻すと、もう海はなかった。 見慣れた道路と頼りない街灯。向かいの住宅。角のコンビニ。変わらない、いつもの、風景。 そっと自分の腕に触れた。抱きしめるように体に触れた。冷えた体には潮のべたつきが残っていた。自分の体から髪から香る潮。風にはもう海の匂いなど紛れていない。排気ガスの薄まった夜の匂いがするだけ。海は、もうなかった。 窓をゆっくりと閉めて鍵をかけた。少し前までそこにあったはずの海は、何の痕跡も残さず消えていた。目で見て肌で感じたことを、頭は忘れようとして、心はしがみつこうとしていた。体に染み付いた海の名残だけが控え目な自己主張をして、私はそれを信じたかった。 ベッドに座って、しばらくそうしていた。棚に飾ってある写真の中で私は笑っている。立ち上がって手に取るとうっすら埃をかぶっていた。思い出は遠い。海は遠い。明日は会社だ。 同じ位置に写真立てを戻した。僅かにずれた隙間をまた月日は埋めていく。そうしてまた遠くなっていく。 海へ行こう。 湧いたように思った。 それは当たり前のように私の中にあった。昔からずっとあったように言葉になった。 明日は無理でも週末ならきっと行ける。沖縄じゃなくてもいい。近くの海で構わない。連休が来たら有給を使って一週間くらい沖縄に行くのもいい。行けないはずがない。 言い聞かせて言い聞かせて、私は頷いた。 ふと髪から香った海の匂いは、あの日の沖縄と同じだった。 20070503 |